思った。整理している。

会社の人と話していると、よく歳の話題がでる。
若いと言われ、先輩方に比べれば確かにそのとおりだと思う。
自分がもっと若い、二十歳前の時は早く二十歳になりたい、大人になりたいと思った。
いざ二十歳になってみると、なんだこんなものかと思った。
若い時の俺は、二十歳に漠然とした夢を持っていた。


二十歳になれば何でも出来るのではないかと思っていた。
社会人になれば何でも出来るのではないかと思っていた。
でもそれはそうではないと二十歳になるにつれて分かった。
夢は夢であるとして覚めていった。
目の前には、幻想ではない、幻想以上の、圧倒的な現実があった。


現実は、知覚しなれば現実にはならない。
(現実は、知覚しなくても良い。)
現実は、知覚したら受け入れなければならない。
(現実は、知覚しても受け入れきれない。)
現実は、知覚したくなる無条件の魅力がある。
(現実は、知覚すれば無視することは出来ない。)
それは、知覚した数だけ広がってゆく。


自分が二十歳になった時、自身の思考の流れ、経過、成長(退化)を考えた。
自分を自分が見捨ててしまわないような自分として生きているか。
自分はどのように思考が変化したか。

思考は、対人など外的刺激、自分の内的刺激によって変わる。
二十歳前は、特にcypher氏との出会いによる上質な刺激により、変化の幅はとても大きかった。
(お…鬼鬼ぃぃ!!!いつもありがとうございます(・∀・))

(基本的に)人間は歳と共に思考の変化があると考えている。
それは比例的な関係かといわれるとそうではない。
日々一定の良い質の刺激を得ていれば比例的。
日々上質な刺激から遠のいていれば、傾きは限りなく水平だ。
自分は普段は水平。
稀に、垂直に近い上質な刺激が飛び込んでくる…そういう事が多い。


自分を理解する(導く)為、日々自分を見て指示して考えて…悩んで進んでいるが、
自分は外的事象、突発的思考に流されやすく、後悔の連続だ。(もちろん、それがとても楽しい事もある)
二十歳前の夢は現実として靄を晴らし、人間社会の日差しに滅入りながらも、日々足をもたつかせて歩いている。そんな感じ。
前に進むのもいいし、後ろに進むのもいい。
前に進んでいると思い込んでいるけど、後ろに進んでしまっているときもある。
悔やんだり、哀れに思ったりするけど、それが ヒトとして生きている ということだと私は思う。